はじめに
下記エントリで述べた経緯で,東日本大震災当時の日記を振り返ります.
この日記は,あっくんや育児に直結する話ではありません.また,構成もメチャメチャ,段落分けも貧弱,です・ます調でもないことは,当時の文書をそのまま引用したためです.写真も当時持っていたガラケーが容量不足のため最低品質で撮影したもので,画質が超絶荒いです.当時の精神状態が表れている文章になります.
気になった部分だけちょこっと修正していますが,文意はそのままです.
そんな感じでいつもと毛色が変わる投稿になることを,ご容赦下さい.
2011年3月11日(金): 地震当日
地震発生
仙台の研究室で実験中に地震発生.居室は6階建てビルの4階.緊急地震速報が作動し「震度4」と予報. 皆で「4か,とりあえず机にもぐっとくか」的なのりで,このあと起きることなんてつゆも知ることなく机の下へ. そこそこ強い地震がくる.震度5強くらいかな?まぁ宮城県民だし,それくらいの地震は慣れっこで, 皆も強いのきたぞ,位の反応だった気がする.その地震が収まってきたかなーと思いきや突然の第二波. こいつは次元が違かった.経験したことのない強烈な横揺れを感じた.机の上のPCやディスプレイ全部ひっくり返って落ちる落ちる.棚から物が飛び出す.200kgもあろう実験器具がバンバン動いてる.壁がメキメキはがれてる.窓が開いて縁から亀裂が入る.電気がついたりきえたりしてパチパチいってる. 「震度4じゃねーよこれ!!」とか「天井落ちてきたら・・・床抜けたら・・・」とかアホなことを思い始める.あとはとにかく「早く止まれ早く止まれ…」が脳内無限ループしてた.居室の皆が恐怖で怯える表情になった.
↑他の学生が「この建物崩れるかもしれない!」と叫んでいたことも覚えている。
地震が収まる
ずいぶん長いこと揺れて,収まった.もういわゆるドラマのワンシーンのような状態だった.何というか,取り出すことが出来るものがすべて取り出されて,部屋中に無造作にばら撒かれてる感じ.壁が割れて部屋が埃っぽくさーっとしてる(何と表現すればいいのだろう).電気は消え窓から光が漏れてる.警報機がジリジリなってるのが聞こえる.という感じ.
一次避難
「外に出るぞーーー!!!!!!!早くーーー!!!」
不断温和な人が大きな声で叫ぶ.彼は阪神淡路大震災の経験者だったのだ.そして皆我に返る.もうとにかく部屋を出たかった.居住者6人,着の身着のままで災害時用ヘルメットをかぶり居室のドアをあける.すると抜けた天井が目の前に落ちて割れてる.もし俺たまたまここにいたら…と思うと恐ろしい.階段で避難をしようとするけど,何か壁抜けまくり.階段傾いてる.結構新しいビルでこれなのだから,ますますただ事じゃないと感じる.外にはたくさんの人がいた.何か道路がぽっこりしてるとこがある.食堂の電気も消えてる.
とりあえず広い駐車場に退避.強い余震を感じる.そうこうしてるうちに寒いことに気がつく.何か雪強くなってるし,ジャージにサンダルだもん(私の謎の研究スタイル).財布とジャケットを取りに部屋に戻る.非常食にとお菓子を回収.ますます雪が強くなる.あんまりに寒いんで車に入れてもらう.3時すぎくらいにとりあえず家族に連絡.家族は全員無事のよう.この時点ではまだ電波は拾えた.指導教員から心配メールが来てたので返信するが,リターンメールが返ってくる.サーバがやられたか.そしてこんなときに限って携帯の電池が切れそう.友人のワンセグでニュースを見る.M8.8の大地震.10mの大津波警報.こりゃますますただ事じゃないと認識.
二次避難
道路で大渋滞が起きている模様.多分電車もバス使えないだろう.さて,仙台市民でない私はどうするべきか.電車とバスで二時間もある場所までどうやって帰れという.と思ってたら,スピーカで放送が流れる. 「ここの体育館はあんま丈夫じゃないし,食料の備蓄もないから,帰ろうね(超超意訳)」 はいはい,言われんでも出て行きますとも.仕方ないから歩く.校舎をざっくり見ても崩れてるところは見当たらない.中はどうか分からないが. そしてやっぱり大渋滞.絶対歩いたほうが早い.道路がぽこぽこしてる.柱が倒れてる.皆災害用のヘルメットかぶってる.もういかにもって感じになっている.
そういえば大学に電動自転車置いてるんだった,と思い出して回収.これが後に功を奏す.4人で行動していたが,2人は台原方面の実家に向かって,私ともう一人の方で,その人の家の方面である南仙台に向かうことになり,2人行動になる.この方が私を救ってくださった恩人となる.
↑大学生協では食事も提供され,避難所になっていたらしいが,それは後で知った.
避難所へ駆け込む
辺りが暗くなってくる.たまたま通りで避難所となってる小学校を発見し,そこに避難し一晩過ごす.しかし寒かった.雪降ってるし,超絶に寒かった.食べ物も水も暖房も毛布も無かった.せめて足用にタオルさえあればと思ったが,贅沢は言えない状況だった.新聞紙だけばら撒いてあった.無いよりはありがたい.そしてなぜか常に持ち歩いてる飴で空腹をしのいだ.(ダイエットで絶食に慣れていたのが功を奏したw) ここで自分らが如何にすばらしい生活をしていたか痛感した.あと,こういう不特定多数の人がいる空間だと,やっぱり自分のことばっかり考えてる人がいる.仕方ないんだけどね.
↑避難者は皆,空腹に耐えている.明かりもなく,幼い子供だって皆,空腹と恐怖で泣いているような空間だった.お母さんだって大変だ.そんな中で,大きい声で「いただきまーす」「うまいうまい」と皆に聞こえんばかりに言いながら,家から持ち込んだであろうおにぎりを頬張るなどと言うスーパー空気読まない行動をとった挙句,「地震の研究者なんて役に立たない,一生やってろ!」などの暴言を発して盛り上がっている高齢な方の集団があった.さすがに,それはひどい….
彼らの成果の一つである緊急地震速報があったからこそ,安全に机にもぐり怪我を免れた人だって大勢いるはずだ.そもそも地震の研究者に,自然現象である地震の発生そのものを今日明日にでも抑制することを期待してはいけないだろう.あまりにも理不尽な要求だ.と,思っても仕方がないのだが.
一方で,なけなしのポテトチップスを分けてくださった優しいお母さんもいらっしゃった.見ず知らずの若造にこの善行.女神である.本当に感謝している.
そして,トイレが劣悪環境であった.水が流れないので大量の排泄物が放置され,真冬の夜にもかかわらず虫がわいていた.
この日の夜はメール10回送信を試みて1回送れるくらいに電波が通ってた.そして携帯の電池が切れた.こんなこともあろうかと,PCとUSB充電器を居室から持ちこんでいだのだ.PCの電池が持つ分,少しだけ充電して安心材料に. そんなこんなで,超絶な寒さと,止まない余震と,ラジオから絶え間なく聞こえる緊急地震速報の警報音で,まともに眠れた人などいなかっただろう.
↑今でも緊急地震速報の警報音はトラウマである.そう言えば職場で,部屋中のスマホから地震速報が鳴った時に机の下に潜ったのが私だけのときがあった.またある時,職場で地震を想定した避難訓練もやったときも,机に潜るという行動が皆無だった.「地震 即 机の下」という行動をとることは,宮城県人なら幼稚園児でさえ完璧に刷り込まれているレベルの安全確保手段なのである.
「なんで誰も机の下に潜らない!?今から地震が来るかもしれないときに,なんで突っ立ってんの!?」そんな感情を胸に,強いカルチャーショックを受けた.地域性の違いであり,無理もない.結局その速報は誤作動だったので大事には至らなかったが.
後日,「地震が来たら机の下に潜りましょう!」と職場の朝礼で話したが,どこまで届いたのかまでは分からない.
反省点
- 携帯の電池は何かあったときのためにある程度充電しておくべきだった.
- 居室に戻ったときに,冷蔵庫から適当に水分を持ち出すべきだった.
おわりに
これが初日の様子です.
うーむ….まだチョコチョコ残ってはいるのですが,あんまり地震の記事でここを汚すのも憚れれるので,ほどほどにしようと思っています ^^;