あっくんと生きる

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あっくんと生きる

「左心低形成症候群」と診断された息子の闘病記+親の感情

東日本大震災当時の日記を振り返る

エッセイ

追悼

3月11日.あの東日本大震災が発生した日です.

この地震で被災し,大切な人を失ってしまった方々,大変な被害に今も苦しみ皆様には,本当に心よりお悔やみを申し上げます.

当時

当時私,宮城県仙台市で大学院生をしておりました.そんなこんなで,かの地震の直撃を受けた一人です. 津波の被害がない地域にいただけ,かなりましだったと思います.

数日間は避難所で生活していたことを今でも思い出します.

テレビでは

地震後しばらくは電気も電波も…ってかインフラ全般終了だったので,地震の直後にテレビでどのような報道が流れていたのか私には分かりません.

ただ,少し経ってテレビが見られるようになってからは,凄惨な津波の被害状況の映像が延々と流れるばかりで,家族ともども陰鬱な日々を過ごしていたと思います.

津波の被害は本当にひどかったです.私もボランティアとして現地支援に行ったこともありましたが,あれはひどいです.あの地域に住んでいる人たちの苦悩を思うと,いたたまれない気持ちになりました.

津波の被害までは受けず

一方,私の大学も実家も山沿いの地域にいたので津波の被害はありませんでした(実家の地域は震度7を観測しましたが…).しかし,インフラや流通が途絶え,周りの人たちも皆,毎日その場しのぎの生活をしていました.それが,当時の大多数の宮城県人の生活であり,私はその一人だったと思います.

テレビでは,最も被害の大きい地域について報道されますが,この大多数の中小規模の被災者の様子というのはあまり大きくは取り上げられるものではありません.もちろん,被害の大きい地域についての報道は,その事実を風化させないために極めて重要なことであり,その報道自体を否定しているのではありません.

ただ,当時実際に被災したかなり多くの人は,津波や原発事故レベルの被害を受けたわけではないけど,普通の生活が,しばらくの期間,継続的に脅かされる程度の被害を受けるような生活をしていたと思うのです.しかし,そういった中小規模程度の被災者の様子はほとんど世間に知られているようには思えませんでした.

それは,私が仕事の関係で福岡に越してきてから,特に強く感じるようになりました.

それでも…

少なくとも,当時宮城にいた人の中に,

「私達だって被災者だよね….」

と寂しそうに口にされる人も,少なくなかったように感じます.

ただ,津波や原発に関する凄惨な事故の被害者のことを思うと,自分だって被災者だなんてことなど,おこがましくておおっぴらには言うべきではないという事情もありました.それが,大多数の被災者の心境だったと思います.

私がそんな立場の一人として,ここに当時の多くの被災者が体験したであろう様子を公開し,読者の方に知って頂けることに,何かしらの価値があるのではないかとふと思ったのです(もちろん,人それぞれ事情は全く異なるのですが,一例として).

あれから6年.当事者であった宮城県の方々も,当時の危機意識が希薄化しつつあっても,不思議ではない時期にさしかかっているのではないでしょうか?

そんな思いが込み上げたので,当時の日記を公開しようと思うに至りました.

当時の日記を振り返る

私は地震当時,記憶があるうちに日々の様子を文書として残しておりました.将来の教訓とするために.

私はその日記を毎年の3月11日に読み返して,当時の様子を振り返るようにしています.振り返った時に思ったことを追記することもありました.

そういう経験もあり,あっくんの病気が判明したときに,ブログを書こうと思った部分もあるかもしれません.

この日記は,あっくんや育児に直結する話ではありません.また,構成もメチャメチャ,段落分けも貧弱,です・ます調でもないことは,当時の文書をそのまま引用したためです.写真も当時持っていたガラケーが容量不足のため最低品質で撮影したもので,画質が超絶荒いです.当時の精神状態が表れている文章になります.

そんな感じでいつもと毛色が変わる投稿になることを,ご容赦下さい.

実際の日記は,次のエントリで公開いたします.